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化学系の分野――化粧品やトイレタリー、食品、サプリメントなど――で知財実務に携わっていると、こんな相談が持ち込まれます。
「この研究成果、権利化できないでしょうか」
開発メンバーが手元のデータを持って相談に来る。あるいは上司から「今度の新商品、特許で押さえておいてくれ」と指示が降りてくる。
さて、どこから手をつけるか。
考えるべきことは山ほどあります。先行技術調査、権利範囲の設計、事業戦略との整合。しかし実務者として一番悩むのは、結局のところ【実施例】ではないでしょうか。
どんなストーリーを組み立てるにしても、最終的に重要なのは適切な【特許請求の範囲】です。そして【特許請求の範囲】を決めるのは【実施例】です。極端に言えば、実施例さえ押さえていれば後はどうにかなる。私はそう考えています。
だからこそ、実施例を組み立てることは企業知財部員の重要な使命なのですが、これがなかなか難しい。
厄介なのは、特許法の知識がほとんど役に立たないことです。
サポート要件の条文を暗記しても、目の前の案件で「成分Aの配合量を何点振るべきか」「比較例に何を置くべきか」は教えてくれません。審査基準を読み込んでも、「この評価項目で効果を示せるか」の判断はできません。
結局、過去の案件を振り返ったり、他社がどう組み立てているかを調べたりしながら、目の前の案件に当てはめていくしかない。つまり、経験がものを言う領域です。
私自身、地方の国立大学で農学修士を取得後、新卒で農業機械メーカーの知的財産部門に配属されました。その後いくつかのメーカーを渡り歩き、サプリメントや化粧品、トイレタリーといった化学領域で、クリアランス調査から発明発掘、権利化まで一通り経験してきました。それでも、新しい案件で実施例の相談を受けるたびに、過去の記憶を掘り起こし、他社の公報を漁ることになります。
そして、この「経験がものを言う」という性質が、学ぼうとする人にとっての壁になっています。
特許法を解説した専門書は数多くあります。明細書の書き方を扱った本もあります。しかし、「この発明で、実施例をどう組むか」という具体的な判断について、実例に基づいて解説したものは驚くほど少ない。
一方で、教材そのものは目の前に転がっています。特許公報です。
公報には、他社が実際に組み立てた実施例と比較例がそのまま載っています。どの成分を何点振ったのか。比較例に何を置いたのか。どんな評価項目を選んだのか。すべて公開されています。
さらに、J-PlatPatの経過情報を見れば、その実施例が審査でどう評価されたかも分かります。審査官がどこを突いたのか。出願人がどう反論したのか。権利化できたのか、できなかったのか。
設計と、その結果。両方が揃っている。 これほど恵まれた教材はそうありません。
本書は、この教材を使い倒すことを目的としています。
取り上げたのは、化粧品・食品・サプリメント分野の15件です。権利化に成功した事例も、拒絶査定に終わった事例も、無効審判で権利を失った事例も含めました。
各事例では、まず公報に記載された実施例と比較例の表そのものを掲載します。そのうえで、
- どの変数を、何点、どう振ったのか
- 比較例をどこに置いたのか
- その設計が、審査でどう評価されたのか
を順に読み解いていきます。
読み進めるうちに、成功した明細書に共通する構造が見えてくるはずです。ひとつ先に申し上げておくと、それは「効果が出たデータをたくさん載せること」ではありません。むしろ逆です。
出願番号と公報へのリンクはすべて掲載しました。手元で公報を開きながら読み進めていただければ、より解像度の高い形で身につくと思います。
なお、本書が扱うのは出願前の設計です。拒絶理由通知が届いた後にどう反論するかではなく、そもそもどんなデータを揃えて出願するか、という段階を対象としています。
開発から相談を受けたとき、研究員に「このデータも取っておいてください」と言えるかどうか。その判断の材料になれば幸いです。
第1部 実施例設計の全体フロー
1-1 実務はどこから始まるか
実務の流れを整理すると、こうなります。
ステップ1:開発者からネタが来る
「従来品にはないこういう効果があるんだけど、特許にならないか」——多くの案件はここから始まります。重要なのは、進歩性の種となる効果は、たいてい開発メンバーがすでに持っているということです。知財担当者が後から効果を発明するわけではありません。
ステップ2:新規性をチェックする
先行技術調査を行い、新規性を確保できる範囲、つまりクレームの外枠を特定します。ここは多くの実務担当者が慣れている作業です。
ステップ3:進歩性を補強する
そして、ここで手が止まります。「新規性が取れる範囲は分かった。では、その範囲で権利を取るために、どんなデータを揃えればいいのか」。この判断こそが、経験のない担当者が最も迷うところです。
本書はステップ3、すなわち進歩性の補強=実施例の組み立てに焦点を当てます。
1-2 進歩性の補強は2つの作業でできている
進歩性の補強を分解すると、2つの作業に分かれます。
作業A:追加試験を提案する
今あるデータだけでは足りない場合、研究部門に新しく試験を提案します。「この比較例を追加で取ってほしい」「この濃度帯のデータがもう1点欲しい」といった依頼です。
作業B:既存データを特許用にトリミングする
すでにある開発データの中から、どれを実施例とし、どれを比較例として明細書に載せるかを選び直す作業です。開発データは特許を意識して取られていないことがほとんどなので、この組み直しが必要になります。
実務では、AとBを組み合わせて対応することが大半です。そして、AとBのどちらの場面でも、**「何と何を対比させるのか」**という判断が中核になります。
1-3 審査基準における「有利な効果」の位置づけ
実施例の設計を考える前に、そもそも効果がどう評価されるかを確認しておきます。
特許・実用新案審査基準(第III部第2章第2節「進歩性」)では、進歩性が肯定される方向に働く要素の一つとして「有利な効果」が挙げられています。ここでいう有利な効果とは、発明特定事項によって奏される効果(特有の効果)のうち、引用発明の効果と比較して有利なものをいいます。
そして、この有利な効果には二つの類型があります。
異質な効果 引用発明の有する効果とは異質な効果であって、出願時の技術水準から当業者が予測することができなかったもの。
顕著な効果 引用発明の有する効果と同質の効果であるが際だって優れたものであって、出願時の技術水準から当業者が予測することができなかったもの。
実務で「異質で攻めるか、顕著で攻めるか」と言うときの「異質」「顕著」は、この二類型を指しています。どちらも、出願時の技術水準から予測できなかったことが前提になる点は共通です。
なお、物の構造に基づく効果の予測が困難な技術分野については、有利な効果を有することが進歩性の判断において重要な事情になるとされています。化学・食品分野はまさにこれに該当します。実施例のデータが持つ重みが、他分野より大きいということです。
1-4 実務ではどちらで攻めるか
この二類型は、実施例の組み方を直接左右します。
基本は異質な効果
実務上、まず検討したいのは異質な効果です。
理由は単純で、顕著な効果は引用発明と同じ土俵に乗ってしまうためです。同質の効果で勝負するということは、引用発明が既に持っている効果について「うちの方が優れている」と主張することを意味します。この場合、「その程度の差は、当業者が配合量や条件を最適化すれば到達しうる」という反論を招きやすい。
これに対して異質な効果は、引用発明がそもそも持っていない効果です。同じ土俵での数値比較にならないため、進歩性を主張する足場としては強くなります。
異質な効果で攻める場合、必要になるのは先行技術が測定していない評価軸でのデータです。
先行技術が洗浄力を評価しているなら、こちらは別の軸——たとえば手荒れの少なさ、泡持ち、すすぎ時間——で差を示す。その評価軸を自分たちで定義し、測定方法の妥当性まで説明する必要があります。
ここが難しいところで、誰も測っていない項目を測る以上、「なぜその項目に技術的意味があるのか」「その測定方法は信頼できるのか」を明細書で説明できなければなりません。評価方法の設計そのものが争点になります(本編第5部で詳しく扱います)。
新しい評価軸を立てる
先行技術が着目していない効果を、自分たちで評価項目として定義して測定します。実務での発生頻度は、案件全体の2〜3割程度でしょうか。アイデアは知財担当者と研究員のブレインストーミングから出ることが多く、測定手法の信頼性は「公的規格・業界標準の測定法に寄せる」か「自社独自の手法の合理性を丁寧に説明する」かのいずれかで担保することになります。
メカニズムの違いを主張する
同じ効果を謳う先行技術と、作用機序が異なることを示します。効果の指標に加えて、機序を示す別の指標も測定する必要があるため、試験の設計はやや複雑になります。
ただし、作用機序を新たに解明しただけでは新規な用途とは認められにくいという審査実務があります(本編第6部の事例を参照)。機序の解明は単独ではなく、他の主張と組み合わせて使うのが現実的です。
顕著な効果で攻める場合
先行技術と同じ評価軸(洗浄力、SPF、崩壊性、安定性など)で、数値的に際立って上回っていることを示す方法です。
この場合、比較の土俵が先行技術と同じなので、比較例を先行技術の構成にできるだけ近づけることが重要になります。比較例が先行技術からかけ離れていると、「差が出て当然」と見なされ、効果の顕著性を示したことになりません。
また、動かす変数は原則1つに絞ります。複数の成分を同時に変えてしまうと、どの変更が効果をもたらしたのかを特定できず、主張が弱くなります。
相乗効果を主張する
成分Aと成分Bを組み合わせたときに、それぞれ単独の効果の合計を超える効果が得られることを示します。単なる相加を超えて際立っていることを示すため、通常は顕著な効果として構成します。
ここに実務上の落とし穴があります。相乗効果を主張するには、「A単独」「B単独」のデータが別途必要です。「A+B」と「先行技術」を比べるだけでは、相乗効果を証明したことになりません。この点に出願後に気づくと、追加試験を避けられなくなります。試験設計の段階で単独データも組み込んでおくことが、実務上の勝ち筋です。
なお、組み合わせによって単独では得られなかった別種の効果が生じている場合は、異質な効果として構成する余地もあります。
1-5 実務での判断順序
以上を踏まえると、実務での判断はこうなります。
- まず異質な効果で行けないか検討する。先行技術が測っていない評価軸で差を示せるなら、同じ土俵での数値比較を避けられます。ただし評価軸の妥当性を説明できるかを同時に検討します。
- 適当な評価軸が立てられない場合、顕著な効果で攻める。先行技術と同じ評価軸で、際立った差を示せるかを確認します。
- どちらの場合も、比較例をどこに置くかを決める。
本編では、実際の特許公報と拒絶理由通知を見ながら、それぞれの場面での具体的な設計方法を検討していきます。
本編の構成
全6部・15事例で構成しています。各事例は、公報の実施例・比較例の表を掲載したうえで、拒絶理由・意見書・審決など実際の審査記録を引用しながら解説します。出願番号と公報リンクを付記しているので、手元で原本を確認しながら読み進められます。
第2部 数値範囲をどう設定するか 配合量やpHなどの数値限定をどう根拠づけるか。境界データの薄さで拒絶された2事例と、範囲の内外を挟むように設計された2事例を対比します。
第3部 比較例をどこに置くか 比較例の配置パターンを、実際の公報の表から読み解きます。段階を分けて設計する事例、成分を1つずつ引き算する事例、自社保有株を比較対象にする事例。
第4部 複数成分の寄与をどう切り分けるか クレームと実施例の構成要素がズレて記載要件を指摘された事例、比較例の配置は良好でも進歩性で敗れた事例、配合比で先行技術と差別化した事例。
第5部 評価方法・判定基準をどう作るか 官能評価の設計ミスで無効審判に負けた事例を中心に、評価基準の作り方を検討します。
第6部 用途・メカニズムをどう書くか 生物材料の同定、総称表現のリスク、用途発明の書き方、市販品が引用文献になる時代の対応を扱います。
巻末には、全事例を横断した実施例設計チェックシートを収録しています。
収録事例一覧(15件)

本編(第2部〜第6部)も、それぞれ実質全文を公開しています。あわせてご覧いただけると嬉しいです。まとめてお読みになりたい方は、Amazon又はnoteにまとめてありますので、そちらもどうぞ。
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ここまで読んでくださってありがとうございます。
このダイジェストと本編は、実際の特許公報とJ-PlatPatの経過情報を1件ずつ辿って作りました。手元にある事例だけでも数十件のドラフトを作り、そのうち構成として筋が通っている15件に絞っています。
もし「参考になった」「次の案件で使えそうだ」と思っていただけたら、コーヒー一杯分の投げ銭で応援いただけると、次の事例を掘り起こす力になります。


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